変化する朝顔

あさがほの 白きは露も 見へぬ也

松尾芭蕉の門下であり、のちに芭蕉と袂を分かった俳人である山本荷兮(かけい)の一句です。
誰もが知る夏の花・朝顔を詠んでいます。
朝顔が露に濡れているが、その露も見えぬほどの花の白さよ。
この句の意味を、私はそのように解釈しました。
朝顔と言えば青。白の朝顔は目新しかったのかもしれません。

荷兮が活躍した江戸時代中期より時は流れ、江戸時代後期。
朝顔はブームとなり、盛んな品種改良によって様々な色や形の朝顔が生まれます。
とても朝顔とは思えない形の花が咲くこともあり、それは〝変化朝顔〟と呼ばれます。
その変化朝顔の、なんと蠱惑的なこと!
一体どのようにして、素朴な朝顔があでやかに変化したのでしょうか。

契機となったのは、意外にも火事でした。
文化3年3月4日(1806年4月22日)、江戸三大大火の一つとされる文化の大火が発生します。
当時の家屋は木造。あっという間に燃え落ち、下谷御徒町(現在の東京都台東区)に広大な焼け野原ができました。
そこに朝顔を植えてみると、変わった形の花が咲くではありませんか。
植木職人が集まって朝顔の栽培をするようになり、焼け跡が僅か数年で朝顔の名所へと発展を遂げたのです。
変化朝顔が人々の耳目を集め、大流行したこの文化・文政期(1804年から1830年)が、朝顔の第一次ブームとなります。

天保期(1830年から1844年)に入り、やや下火になっていた朝顔の人気ですが、
嘉永・安政期(1848年から1860年)に第二次ブームが訪れます。
その立役者が、植木屋・成田屋留次郎です。 彼は自らを「朝顔師」と名乗り、並々ならぬ情熱と努力を朝顔に捧げました。
珍しい朝顔が咲いたと聞けば全国どこにでも飛んでいき、種を手に入れて品種改良を重ねる。
変化朝顔の図譜を何冊も出版する。朝顔の花合わせ(品評会)を主催する。
留次郎のそんな熱意がブームを支え、この頃には1200種類もの朝顔が作り出されていたそうです。

これら二度のブームを経て、朝顔は日本で改良技術が最も確立された植物の一つとなりました。
その種類は他の花とは比べ物にならないほど多く、
ここまで多彩な変化を見せた植物は世界的にも朝顔をおいて存在しないと言われています。

さて、もし少しでも変化朝顔に興味を持っていただけたのなら、まずはその花容を思い描いてみてください。
想像によって〝わくわく〟が膨らんだところで、満を持してインターネット検索です!
細く切れた花弁が、武将の使う采配に似ることから名付けられた采咲き。
花芯が風車さながらの形状を成す車咲き。
裂けて管のようになった花弁が乱れ、獅子のたてがみに見立てられた獅子咲き。
などなど、その命名からして妖美な花々に、あなたは魅了されることでしょう。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 \ SUZURIでグッズ販売始めました / 

  https://suzuri.jp/WakuWakuCreators