ベートーヴェンのこの明言を、皆さんはご存じでしょうか?
この言葉通り、ベートーヴェンは幾多の苦難を乗り越え、名曲を生み出しました。
では、どのようにして彼が困難な運命に立ち向かったのか、追ってみましょう。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、1770年、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンに生まれます。
宮廷歌手である父は、幼い息子の音楽の才能に気づき、音楽教育を施します。
モーツァルトのような神童に仕立て、莫大な利益を得ようとしたのです。
アルコール依存症の父が大酒を飲みながら行う指導は、あまりに苛烈で、
一時はベートーヴェンが音楽を嫌悪するようになったほどです。

その後、ベートーヴェンは作曲家ネーフェに師事し、14歳には宮廷オルガニストの助奏者になります。
そして1787年、16歳のベートーヴェンは、音楽の都ウィーンを訪れます。
尊敬するモーツァルトに会うためです。
しかし、母親が危篤だという知らせを受け、二週間程度で帰郷を余儀なくされます。
帰還してほどなく母親は亡くなり、一方、父親のアルコール依存症は悪化していきます。
ベートーヴェンは、働けなくなった父の代わりに家計を支え、弟達の面倒を見なくてはなりませんでした。
1792年、ボンに立ち寄った交響曲の父ハイドンに才能を認められたことで、彼の弟子として再びウィーンに渡ります。
ピアノ演奏の腕を認められ、演奏会を開いて作品を発表し、音楽家として名声を高めていきます。
けれど、ようやく開けた彼の前途に、最大の壁が立ちはだかります。
20代後半から始まった難聴です。
30代になる頃には、日常生活にも支障をきたすほどの症状でした。
1802年、絶望したベートーヴェンは自殺を考え、遺書をしたためます。
しかし、遺書を書くうちに心境は変化していきます。己の内にはまだ音楽への情熱があると悟るのです。
生きる活力を取り戻したベートーヴェンは、その後の約10年間で、
交響曲第5番「運命」など多くの傑作を次々に書き上げました。
40代になった彼の難聴はさらにひどくなり、腹痛や下痢といった体調不良にも苦しめられます。
加えて、後見人となった甥の非行などに悩まされ、作曲活動に影響を及ぼします。
そんな苦悩の中で生まれた大作が、あの有名な交響曲第9番です。
この曲の第4楽章には、歌が存在します。
その名も「歓喜の歌」。
苦悶しながらも、ベートーヴェンは創作に喜びを見出していたのではないしょうか。
交響曲第9番を書き終えた時の彼は、まさしく「苦悩を突き抜けて歓喜に至る」状態であったに違いありません。

1826年には肺炎になり、黄疸も併発。
病床に伏しながらも交響曲第10番の作曲を始めますが、ついに完成はせず、
1826年3月26日、永眠します。
56歳の生涯でした。 葬儀には、2万人以上が参列しました。
このようにベートーヴェンは、決して逆境に負けず前進し続けました。
そんな彼の生き様から、皆さんが少しでも勇気をもらえることを祈ります。
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