
目も見えず耳も聞こえない状態で障害者の教育・福祉に貢献をした人物、ヘレン・ケラーをご存じですか?
本日は強くそして聡明な女性ヘレン・ケラーについてご紹介いたします!
ヘレン・ケラーは1880年6月27日にアメリカ合衆国アラバマ州にある小さな街タスカンビアの旧家で生を受けます。
快活でいつもニコニコ明るい子少女だったヘレン。
成長も他の子どもたちより早く生後6ヶ月で言葉を発し、1歳の時には歩けるようになっていたそうです。
しかし1歳半の時に彼女の人生は一遍します。
原因不明の高熱と腹痛におそわれ、髄膜炎に罹患してしまい、
一命はとりとめたものの
彼女は苦しさと引き換えに視覚と聴覚は失われてしまうのでした。
当時は世界的に障害者教育のない時代。
教育を受けようにも満足に受けることができない…
そんな中、ヘレンはアン・サリヴァン女史という家庭教師と出会います。
彼女は孤児で救貧院育ちで、目もほとんど見えません。
ヘレンがはじめて同じ境遇で努力する人と出会った瞬間でした。
この出会いがヘレン・ケラーにとってターニングポイントだったのかもしれませんね。
アン・サリヴァンと出会った頃のヘレンは遊びたい盛り。
自分が気に入らないことがあると癇癪を起し、たびたびアンを困らせていました。
似ている境遇のヘレンを一人前に育てたいと思うアン。
食事の作法など厳しくも彼女のためを思い教育を行った偉大な家庭教師により
ヘレン・ケラー人生は明るく、そしてとても広く深いものへと変化していきます。

16歳の時にはケンブリッジ女学校へ入学したヘレン。
しかしヘレンの学校生活に常に付き添っていたアンとケンブリッジ女子高の校長がトラブルとなり退学処分をくだされるも
勉強の道を選んだヘレンはアンと共に名門ラドクリフ・カレッジを目指します。
結果は見事合格!点字で試験に挑んだ彼女の努力と決意が見える時代です。
大学卒業後、目も見えず耳も聞こえないヘレンは障害者のために生きることを決めていました。
マサチューセッツ州が盲人教育委員会を設立することになり、若干26歳で盲人代表として委員に任命されます。
しかし、障害のあるヘレンには、その仕事は荷が重く、2年で辞任。
その後はアンの夫で二人の理解者であるジョンと共に、苦しんでいる人のために働きたいと、社会党へ参加し
障害者の希望の星へと彼女の存在は世に知られることとなります。
ヘレン・ケラーは1968年6月1日、87歳で亡くなるまで
障害のある方たちが楽しく、幸せに暮らせる社会作りに取り組んできました。
アメリカ盲人援護協会の設立など彼女の残した功績は数え切れません。
彼女の名言にこんなものがあります。
「目が見えないことは悲しいけれど、見える目で何も見ないことはもっと悲しい。」
自分の都合のいい情報のみ受け取り、弱者を淘汰する。
目をそらし、見ないふりをする人々。
そんな優しくない世の中について彼女はずっと向き合い、社会のあるべき姿を問い続けていたのかもしれません。
いかがでしたか?
今回はヘレン・ケラーについて紹介いたしました!
自身の障害を受け入れ、努力し、自分の考えや行動を貫いた彼女のように
私たちも清く正しく生きていきたいですね
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